
オフィスレイアウトの重要なお知らせ
三分の一が困窮しているのなら、三分の二の国民は悪い状態に置かれていなかったことも指摘しておかなければならない。
上流階級は相変わらず優雅な生活を続けていた。
レストランで食事をする余裕のある者は、皿の料理を幾分か残すことがエチケットとされた(レストランの側ではそれをきれいに区分けされた残飯として外に出し、赤十字などの慈善団体が毎日それを市内の所定の場所に運ぶのだった)。
屈辱に耐えて救済にすがる家族があれば、マニキュアの爪にひらひらの洋服を着て苦労を知らぬげに救済事務所で働く大学出のお嬢さんもいた。
また、国民の三分の一が困窮していた間にも、新しい事業で大当りをとる人間もいた。
「私はシカゴを一九二九年の六月に卒業しました。
大暴落の二、三ヵ月前です。
チェスター・ポウルズと私は一七○○平方フィートで事業を始めました。
彼と私と、女の子が二、三人だけです。
私が営業を始めた頃、うちのグラフは交差していました。
左側の線は一番上から始まって右側の一番下へ。
それが株式指標です。
もう一本の線はベントン・アンド・ポゥルズで、それは左の一番下から右の一番上まで行っていました。
交差です。
株式市場が忘却の彼方に消えていったとき、ベントン。
アンド・ボウルズはスターにのし上がって行きました。
私の友人のピアーズリー・ラムルは、カタストロフィの中からの進歩、という理論を奉じていました。
すべてのカタストロフィは潜在的に何か利益をもたらします。
私は大不況で利益を得ました。
他の人もです。
赤インク、赤鉛筆、赤いクレヨンなんかを売っていた人も儲かったのではないでしょうか。
われわれは世間が不況だということを知りませんでした。
ただ、得意先の商品の売行きががた落ちだったので、彼らはわれわれに新しいアイデアを一生懸命説明してくれました。
もし景気が良ければ、彼らはわれわれをドアの内に入れてくれるはずがありません。
ですから、大不況は私にとっては良かったのです。
私の所得は毎年倍々になりました。
私がベントン・アンド・ポウルズを辞めたとき、年収は五○万ドル近かったと思います。
それは銀幕の大スターでも稼げないほどの金額でした」(上院議員、国務次官補、シカゴ大学副学長などを歴任したウィリアム・ベントンの談話。
また、大不況期に子供時代を過ごした世代にとって、失われた物は大きかったが、それでも、悪いことばかりでもなかった。
両親の苦労を見て育った子供は、早くから親の助けになろうと一生懸命だった。
家族が生きていくためにパーティーンエイジャーとて無為に時間を過ごすわけにはいかなかった。
やがて、彼らは信頼性、自立心、秩序、他人への思いやり、金銭感覚など、近代工業社会では美徳とみなされる性質を身につけていった。
思えば、一九二○’三○年代は、アメリカそのものにとってティーンエイジャーの〃伽馴力時代だったのかも知れない。
第一次世界大戦を境に、アメリカの経済力は。
パックス・ブリタニカのイギリスを凌いでいった。
貿易においてイギリスを凌駕し、金融面においても世界最大の資本輸出国となった。
新興工業国アメリカは移民を惹きつけた。
労働生産性が上昇し、企業利潤はそれを上回る速さで上昇した。
世界の金準備の四○%がアメリカに集まった。
言ってみれば、アメリカは身体だけは頑丈な大人として成長した。
しかし、アメリカは国際社会に果たすべき役割には跨路した。
たくましく育った身体には、それにふさわしい責任がつきまとうとは考えなかった。
アメリカは国際連盟への参加を拒否した。
アメリカは移民を拒絶した。
アメリカは国際的金利格差の解消を求めるョ−ロッパの中央銀行の要求に屈し、株の急騰に油を注ぐ公定歩合の引き下げを実施した。
株価の過熱から、資金が債務国へ向かわず、国内の株式市場に還流して、債務国の金融を逼迫させることには思いが至らなかった。
一九三○年にはスムート・ホーリー関税法で国内産業と農業を保護しようとしたが、そのことがヨーロッパをはじめとする対米輸出国経済に与える甚大な被害には目をつぶった。
金融政策は絶えず内向きに運営され、財政政策は均衡予算の範から解放されなかった。
イギリスの金本位制再離脱に際しては、世界の金の四○%を保有しながら、まるで臆病な兎のように身を縮めた。
一九三三年のロンドン世界経済金融会議においても、ルーズベルトはもっぱら国内経済の建て直しに注意を向け、ハル国務長官の主張した関税引き下げの国際合意の形成にも、国際通貨制度の再構築にも理解を示さなかった。
こうしたアメリカのためらいを、キンドルバーガーはイギリスからアメリカへの経済的覇権の移行期にアメリカが見せた指導性の欠如と見なし、世界的大不況も結局は覇権の移行の狭間で、世界経済の運営に責任を持つ国がいなかったために起こった出来事だと解釈した。
それはそうだったのかもしれない。
しかし、おそらくそのことを一番良く知っていたのは他ならぬアメリカ自身だったであろう。
やがて、アメリカは、第二次世界大戦を通じて自らの経済力を再確認すると、来るべき戦後の国際経済秩序についてイギリスと真剣な検討に入る。
リチャード・ガードナーによれば、大戦後をにらんでの国務省、財務省、および副大統領を中心とするアメリカの経済外交政策は、かつてのパリ講和会議におけるアメリカ代表団の準備不足、アメリカの国際連盟不参加による甚大な被害、経済問題が平和の最も大きな妨げとなったことへの反省、という三つの教訓に基づいていたという。
そして、一九四三年四月日本軍が連合艦隊司令長官山本五十六をソロモン群島上空で失ったころには早くも、イギリスを代表するケインズとアメリカを代表する財務省特別補佐官のホワイトがやがて国際通貨基金(IMF)と国際復興開発銀行(略称「世界銀行」)に結実していく国際金融体制案を明らかにしていた。
ドイツの賠償問題への反省からは、第二次大戦後のマーシャル・プランが生まれた。
ハル国務長官のロンドン世界経済会議以来の主張は、「関税と通商に関する一般協定(GATT)」に実を結んだ。
アメリカはドルを基軸通貨とする国際通貨体制を受け入れた。
ドルを公的準備通貨とするためには、アメリカは継続的な輸入を通じてドルの安定的供給を続けなければならない。
そのためには、国内経済をインフレにも大不況にも陥らせないよう管理する必要がある。
アメリカ議会が一九四六年届用法」を制定し、「最大限の一雇用、生産および購買力を促進することは、連邦政府の継続的政策であり責務である」と述べたのは、アメリカが世界の中央銀行に就任する宣誓の言葉だったのである。
こうしてアメリカは、第二次世界大戦を経てようやく、国際社会の中で経済的体力にふさわしい責任を果たす決意をなし、ここにアメリカの放縦と逢巡と内向の時代は終わりを告げる。
そのとき、既にアメリカの経常収支が恒常的な黒字を計上し始めてから半世紀が過ぎていた。
しかし、いまはもう紙数が尽きた。
アメリカが激動と模索の中から世界経済の主導者の役割を引き受けるに至った軌跡、ニューディールから・パックス・アメリカナヘの軌跡の探求は、残された課題として、今回はここで閉じておくことにする。
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